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11/1/2025

明晰さから見えてくる人間の豊かさ by Ryo

社会心理学と歴史心理学の諸問題は、多くの点で、私たちがこんにち研究できる最も面白い問題である。現代の、それどころか西洋文明の主要な知的伝統が合流して、いま最も刺激的なのは、この分野である。現代においては「人間性の本質」-啓蒙主義から引き継いだ人間の生成的イメージ-が問われてきたのはこの分野である。全体主義政府の勃興によって、民俗学的相対主義によって、人間の大きな潜在的非合理性の発見によって、人々が歴史的にきわめて急速に変容してみえることによって、人間性の本質が議論の対象になってきた - p267, 社会学的想像力 「呪術師の世界」は、「ふつうの人の世界」の自明性をくずし、そこへの埋没からわれわれを解き放ってくれる翼だ。しかし一方「呪術師の世界」を絶対化し、そこに入りきりになってしまうと、こんどはわれわれはその世界の囚人となる。<見る>ことと呪術の関係について、ドン・ファンはまたこうも言う。<呪術師の世界の見方>を学んだ者でも、<見る>ことを学ぶとはかぎらない。むしろある意味では、<見る>ということは、呪術の反対でさえある...「見ることのできる奴はすべてだ。それに比べたら呪術師なぞ悲しいものさ。」 - p84, 気流の鳴る音 人類史のなかで示される人々の広大な多様性について少し考えてみればよい。社会科学者だけでなく心理学者も、文章を書き終える前に、その主題が「人間」であるということをしっかり考えるべきである。人間の多様性とは、私たちの知るいかなる「要素」心理学、「本能」心理学、「本能」理論、「基本的な人間性」の原理をもってしても、人間の諸類型や諸個人のとてるもない多様性を説明することができないような多様性である。人間について、人間生活の社会的歴史的現実に内在するものを離れて主張できることは、人類の生物学的限界の幅広さと可能性だけであろう。しかいその限界内で、そしてその可能性から、人間の諸類型の一大パノラマが広がっている。それを「基本的な人間性」という理論で説明しようとするのは、「人間性」についての<概念>の貧弱で小さな檻のなかに、人類史そのものを閉じ込めることである。 - p276, 社会学的想像力 「お前は世界を止めたんだ。」「その止まったものってなんだい?」「人が世界はこういうものだぞ、とおまえに教えてきたことさ。わかるか、人はわしらが生まれたときから、世界はこうこうこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。」 - p85, 気流の鳴る音 無知に耽溺するものは あやめもわかぬ闇をゆく 明知に自足するものは、しかし いっそうふかき闇をゆく "indulge"とは、まさしくこの「耽溺する」「自足する」という意味に他ならない。それはたとえば慢性中毒者などが、酒や麻薬にふけって、そこからぬけだせなくなっている、そういうイメージをもっている。いわば<自己の惰性に身をゆだねること>。ドン・ファンはカスタネダの、合理的に説明しようとする強迫を、ひとつの"indulgence"としてとらえる。つまり、合理的主義的な世界の自己完結性、自足性を、ひとつ<明晰さ>の罠として、人間の意識と生き方をその鋳型の中におしこめる一つの閉ざされた「世界」として把握する - p96, 気流の鳴る音 自分自身およびその社会的立場について、真に適切な「明晰な」見解を持つ人間集団は稀である。一部の社会科学者の用いる方法がしばしば想定しているように、その反対を想定するということは、18世紀の心理学者ですら認めないほどの、理性的な自意識と自己認識を想定することである。「ピューリタン」、その動機、宗教制度と経済制度におけるその機能についてのマックス・ヴェーバーのアイディアのおかげで、私たちはピューリタンについて本人よりもよく理解できる。ヴェーバーは構造という概念を使うことによって、個人とその生活圏についての「個人の自分の認識」を越えることができたのである - p274, 社会学的想像力 将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも-そのどちらでもなくて-一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。 - p366, プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 バルザンとグラフは次のように述べている。「人間性というのは概念そのものが、社会科学の一つの想定なのだから、それがその報告の主題となると言うと、本質的な論点を避けることになる。そこには<人間文化>というきわめて変わりやすいものしか存在しないかもしれない」 - p276, 社会学的想像力 ドン・ファンはただ平静であり、人間のとらえうるものが<世界>の神秘のほんの微小な部分にすぎないことを対自化しうるほどにまで冷静であればこそ、人間的知性の説明体系の自己完結性などを信じていないのだ - p98, 気流の鳴る音 私たちはたまにはその謎(<人間>の豊かさ)にふけり、結局自分たちはその謎の一部なのだと感じたいこともあるし、多分そうするはずである。しかし西洋人である私たちは、人間の多様性を研究することも避けられないだろう。それは私たちにとっては、視界に入る人間の多様性から謎を取り除くという意味である。その際、私たちが研究しているものが何であるか。人間と歴史と個人史についていかにわずかしか知らないか、私たちがその被造物であると同時に創造者でもある社会についていかにわずかしか知らないか、忘れないようにしよう - p277, 社会学的想像力 「明晰」とはひとつの盲信である。それは自分の現在もっている特定の説明体系(近代合理主義)の普遍性への盲信である。「なんでも知っているようにふるまうよりは、どのヤブにウサギがかくれているか知らない方がずっとすばらしいさ。」 - p118, 気流の鳴る音 I do like to believe we are destined for such. 「人間は学ぶように運命づけられておるのさ。」ドン・フアンが言う - p165, 気流の鳴る音