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10/26/2025

資本論の読む際のメモ書き(2) by Ryo

行為事実的な関係について - p286, 存立構造 人間が自分たちの労働生産物を価値としてたがいに関係つけるのは、けっして交換する物が同種の人間労働の物的な外皮として通用しているからではない。事実はまったく逆だ。人間は、異なる種類の生産物を人間労働としてたがいに等置している。人々は、そうであることを知らないままに、そのように行動している。だから価値が何であるかは、価値の額には書かれていない。むしろ価値は、あらゆる労働生産物を一つの社会的な神聖文字に書き換えてしまう。後になって人間たちは、自分自身の社会的生産物の秘密を探るために、この神聖文字の意味を解読しようとする。なぜなら、使用対象を価値として規定する行為は、言語と同様、人間が社会的に生み出したものだからだ - p146, 商品のフェティシュ的性格とその秘密 [17] 商品交換の関係(単純な価値形態)の非対称性と行為事実的な関係 - p299, 存立構造 見ようによっては、人間も商品と同じだ。だれしも鏡を手に生まれてくるわけではなく、「わたしはわたしだ」などとというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるわけでもない。だから人間はまず他者のなかに自分の姿を映してみる。人間ぺテロは、自分に等しいものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係する。しかしぺテロにとっては、パウロはあくまで肌と髪を備えた存在であり、そのままの状態で人間という類の現象形態とみなされる - p108, 相対価値形態の内実 [18] --- [17] 「我々は、社会的産物という特色をもっている現象のみを、記号学の対称と認める。換言すれば、ラングは記号学的産物であり、記号学的産物は社会的産物である、ということである。しかし、その正体はなんであろうか。いかなる記号学的体系もさまざまな次元に属する複雑な単位群から構成されているが、これらの単位の真の性質は-これこそ記号学的単位を他の事物と区別するものであるが-価値であるということなのだ。記号の体系という単位の体系は、価値体系にほかならぬ。経済学をも含めて、あらゆる次元の価値は記号である。いかなる価値といえども個的存在ではあり得ず、記号は体系の容認によってしか即時的な価値をもつには至らないであろう... 」 ソシュールはここで、記号学の体系を一切の社会的産物と規定し、自然的指標を除外します...一見、事物それ自身が有するかに見える客観的価値、有用性、使用価値といったものも、実は文化体系のなかだけで機能する交換価値、象徴価値と同じ本質をもつ関係的存在に過ぎないということがわかります - p66, ソシュールを読む [18] 消費と流行のサイクルに入りこむことは、自分の好みに合うモノやサービスに取り込まれるようになることばかりではなく、自分自身の存在の意味そのものを変えることでもある。それは自我のもつ自律性・性格・固有の価値にもとづいた個人的原理から、個人の価値を合理的に減少させ、変動させるコードに従って行われる...その結果、個人はもはや自律的価値の中心ではなく、流動的相互関係の過程における多様な一項にすぎなくなる - p298, 消費社会の神話と構造 他人指向型の人間は、ある意味で、あらゆる場所で健在でありうる。あるいは、逆の言い方をすれば、安住の地がどこにもないということもできる。かれは、だれに対してでも、すばやく反応する能力をもちあわせているのだ。もっとも時として、その親しさは、皮相的なものであるけれども - p20, 孤独な群集